1905年、フランスのグランヴィルで生まれる。
ディオールの父親は肥料の生産事業を成功させた実業家で、ディオール家は裕福であった。
ディオールはもともと建築家を志して芸術の勉強をしていました。
しかし、両親は外交官になることを望みディオールをパリの政治学院に入学させます。。。
ディオールはここでの出会いや人付き合いを大切にし、素晴らしい人間関係を構築していきます。
このことが後の成功につながります。
その後、ディオールは新進のアーティスト達の友人に囲まれ、芸術界と密接な関係を構築していきました。
ディオールは結局、芸術に興味をもっていたため1920年終わりに父親の出資をもとにして友人と提携しパリ8区に小さなギャラリーをオープンします。
そこで、若く才能あるアーティスや現在美術の巨匠を世に紹介し、芸術界で黄金期を築き上げていきます。
しかし、1929年の世界恐慌により父親も資産を失い、ディオールのギャラリーも閉鎖を余儀なくされ破滅的な被害をうけます。。。
その後、ディオールは病に倒れ、イビザ島で療養を余儀なくされます。
体調が回復したディオールは1937年、友人でパリ・シルク通り(シャンゼリゼ通り)にメゾンを開いて独立していた、ファッションデザイナーで偉大なクチュリエであったロベール・ピゲの下で働きます。
しかし、1939年第二次世界大戦が勃発しディオールは兵士として動員されます。。。
ディオールは微兵から復員しニース周辺に避難して果物や野菜を育てながらファッションのデザインを描いていました。
ここでディオールは、後のDiorのオフィシャル・イラストレーターとなるルネ・グリュオと出会います。
1946年、ディオールは繊維業で成功を収めていた実業家で綿のファブリック王のマルセル・ブザックに才能を評価され、彼の支援を受けてディオールは独立します。
1947年、ディオールは当時パリで流行していた角ばったファッションを否定し、贅沢な素材で女性らしいフェニミンなスタイルを独自に再現します。
このディオールの新しいスタイルは「ニュールック」と呼ばれるようになります。
その新しいスタイルはフャッション界の権威ある大物たちも革命と宣言するほどのセンセーショナルを巻き起こします。
初期の頃はスカートで膝下まで覆う形や、ドレスやスーツに贅沢な生地を使用する「ニュールック」と呼ばれた新しいスタイルに対して抗議する女性もいましたが、徐々に沈静化していきます。
「ニュールック」は女性の服装に革命を起こし、第二次世界大戦後のパリを再度ファッションの中心地として復興させます。
その後も次々に新しいスタイルを毎年「ライン」というテーマで発表し続けて、戦後のファッションの指針を示しディオールは約10年間でファッション業界の帝王としての地位になるまで成長していきます。
1949年、「女性を演出するには、女性に相応する香水を」という思いから香水やビューティーラインに特化した「パルファン・クリスチャンディオール」という会社を設立します。
1950年にはディオールは東京で、日本では初めてとなる欧州ハイブランドのショーを行います。
1952年、さらに進化を遂げるディオールはロングスカートから40㎝も一気に短くしたスカートを、1953年には「チューリップライン」と称し、ふんわりしたスタイルを発表しました。
1953年、靴専門店の「クリスチャンディオールS.A.R.L」が設立されます。
そして、1954年以降もウエストをゆったりしたラインへチェンジし「ニュールック」をやめましたが、この新しいデザインもまた世界から称賛されることになります。
しかし、1957年、ディオールは休暇中、イタリアのモンテカティー二・テルメを訪れていたが、その地で10月23日に52歳で急死します。。。
死因として「魚の骨を喉に詰まらせた後に心臓発作で死亡」や「カードで遊んだ後に心臓発作で死亡」などの報告がありました。
ちなみに、心臓発作の原因は自由奔放で日頃不摂生だったディオールの「活発な性生活」が原因との噂もありました。。。